Italia Trip

Mr.Kのイタリア旅日記 vol.13

2022.03.09
 

ジョルジオ・ペリッセロという男はとても個性的な男だ。
そしてとても優しくて紳士だ。もちろんすべてを知っているわけではないので、本当のところはわからない。しかし少なくとも20年以上気持ちのいい付き合いができているし、いつも笑顔で接してくれている。フードライナーとしても言いたい事ははっきりと言うし、逆にジョルジオも言ってくる。とても良い関係だと思っている。

初めてジョルジオ・ペリッセロと出会ったのは、約20年ほど前の事だと記憶している。確かめようと過去の価格表を探してみた。
表紙には2002年7月版と書いている。2000年−2001年の価格表にはペリッセロのページがない。

2002年、今から20年前なので私は43才、ジョルジオ・ペリッセロは私より6才若いので37才という事になる。当たり前だが、お互いに若かった。

その頃フードライナーが扱っていたバルバレスコは、この価格表によると、
1.BRUNO GIACOSA BARBARESCO 1998 \9,200
 BRUNO GIACOSA BARBARESCO RABAJA 1996 \12,000
 BRUNO GIACOSA BARBARESCO ASILI 1997 \14,000
2.MARCHESI DI GRESY BARBARESCO GAIUN 1998 \12,500
 MARCHESI DI GRESY BARBARESCO MARTINENGA 1998 \8,800
3.SCARPA BARBARESCO TETTINEIVE 1988 \18,500
このようなバルバレスコを扱っていた。そこへ少し若手の造り手のバルバレスコを加えたのだ。ついこの間のように思えるが、20年も前のことだ。まさに光陰矢の如し。

ブルーノ・ジアコーザのバルバレスコはピエモンテの伝統的な大樽(5,000ℓ−10,000ℓ)でゆっくり、ゆっくり熟成をさせるクラシックタイプであり、マルケージ・ディ・グレーシーは逆に小樽を使いながらのモダンなバルバレスコの造り手。スカルパは想像を絶するほどの超クラシック。そこへ超モダンなペリッセロを加えたのだ。

当時ペリッセロは、彼らに比べるとそれほど有名でもなく、発展途上のこれからの造り手であった。(彼はすでに有名と思っていたかも知れないが…)
とにかくバルバレスコやバローロには有名なワイナリーが山ほどあって、抜きん出ることは並大抵なことではないのだ。しかし有名であるかないかは別問題として私が彼のバルバレスコを初めて飲んだ印象は、ケタ違いに美味かった。
今でもはっきりと覚えている。衝撃的であった。それではなぜそれほど有名でもなかったペリッセロのワインと出会ったかというと、そこにはグラッパの造り手ベルタ社が関係する。2002年の春、私が現在のフードライナーの会長と一緒にNIZZA MONFERRATOのベルタ蒸留所を訪問した事から始まる。

ベルタ社とはすでに10年近く付き合っていたので、現在のオーナーであるエンリコ・ベルタ、通称キッコ・ベルタとはかなり親しい間柄ではあった。ベルタ蒸留所訪問自体は毎年のことなので特別な意味はなく、遊びに行く感覚でその年に何か新しいグラッパがあれば見せていただく程度の訪問であった。

味見をしたり商売の話をしていた時、急にキッコ・ベルタ(Chicco)が「今はどこのバルバレスコを扱ってる?」という質問をしてきた。彼は私達がGAJA BARBARESCOを扱っていた事も知っていたので、かなり興味を持っていた。当時扱っていたワイナリーを彼に伝えると、「最近、素晴らしいバルバレスコの造り手を見つけた。実際にはまだ飲んでいないが、彼が作ったブドウの絞りカスを見た。非常に質の高い絞りカス(ヴィナッチャまたはポマースと呼ばれるワインを作った後の皮と種のこと)だった。

あれは絶対に素晴らしいワインから出るヴィナッチャだと思う。」と言い始めた。「もし良かったら一緒に見に行かないか?」と言う事になり、私も会長も二つ返事で「行こう!」となって1時間ほどかけてペリッセロのセラーまで車を走らせた。

到着したワイナリーはピエモンテにおいては中規模クラスのワイナリーで、そこら中が工事中というか、未完成なワイナリーであった。中から出て来た男性がジョルジオ・ペリッセロだった。やけに笑顔で人の良さそうな男であった。どちらかと言うと男前と言って良い。「BUON GIORNO!!」キッコはほとんど英語が話せなかった。今でこそ多くの人が英語を話すが、当時はそれが普通だった。

しかし、ジョルジオは英語が話せた。ホッとした。早々に自己紹介を済ませると、ことのいきさつをキッコが説明してくれた。突然の訪問にもかかわらず、ジョルジオは私たちを歓迎し、本当にうれしそうに対応してくれた。
次から次に自分の作ったワインをグラスに注ぎ、説明を続けた。
基本的にペリッセロのワインは濃い。あの頃はバローロ・ボーイズたちの作るバローロもそうであったが、アメリカ市場でうける味を意識していたせいで、ピエモンテのワイン全体が強くて濃い方向に進んでいた。(全てではないが)
まあピエモンテに限らずヨーロッパ全体にそんな空気感があった時代だ。
次から次へと試飲を繰り返し、価格交渉も済ませ話しもまとまり、なんとその日のうちに契約成立となった。あれから20年。ペリッセロのワイナリーも年々セラーを大きくし、今ではかなり立派なワイナリーになっている。
生産量も私たちが始めたころは、すべて合わせて20ha(10万本)くらいだったが、今では、45ha(25万本)になっている。私としてもうれしい限りだ。